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ひふみ神示 第十五巻 一八(イハ)の巻

日月神示

この巻の名である「一八(イハ)」は、弥栄(いやさか)、すなわちますます栄えることを意味します。岩のように固く、揺るぎない弥栄の世の到来を告げる巻です。

目次

第一帖 (三六六)

【原文】

一八(いわ)の巻 書き知らすぞ。一八は弥栄。 ひふみよいむなやこと が神ざぞ。 ひふみよいむなやこと が神ざと申してあろう。悪の守護となれば、悪よく見えるのざぞ。人民 悪いこと好きでするのでないぞ、知らず知らずに致してゐるのであるぞ。神にも見(み)のあやまり、聞きのあやまりあるのざぞ。元の神には無いなれど、下々の神にはあるのざぞ。それで見なほし、聞きなほしと申してあるのざぞ。元の神には見直し聞きなほしはないのざぞ、スサナルの大神様 鼻の神様 かぎ直しないぞ、かぎのあやまりはないのざぞ。人民でも、かぎの間違ひないのざぞ。鼻のあやまりないのざぞ。スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。間違ひの神々様、この世の罪けがれを、この神様にきせて、無理やりに北に押込めなされたのざぞ。それでこの地の上を極悪神がわれの好き候(そうろう)に持ちあらしたのざ。それで人皇の世と曇りけがして、つくりかへ、仏の世となりて、さらにまぜこぜにしてしまふて、わからんことになりて、キリストの世にいたして、さらにさらにわからぬことにいたしてしもふて、悪の仕組通りにいたしてゐるのぢゃぞ、わかりたか。釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。同じ神二つあると申してあらうがな。 ひふみよいむなやこと なくなってゐるのざぞ、ひふみよいむなやこと ない ひふみよいむなやこと ざぞ、ひふみよいむなやこと でないと、まことできんのざぞ、わかりたか。 ひ なきもの悪ざぞ、ひ は霊ぞ、火ぞ、一(はじめ)ざぞ。くらがりの世となってゐるのも、ひ ないからざぞ。この道理わかるであらうがな。旧一月十五日、かのととりの日、一二(ひつぐ)のか三(み)。

【現代語訳】

「一八(いわ)」の巻を書き記すぞ。「一八」とは弥栄(いやさか)のことである。 「ひふみよいむなやこと」こそが神なのだ。 「ひふみよいむなやこと」が神であると申してあろう。悪の守護を受ければ、悪がよく見えるようになるのだ。人民は、好きで悪いことをしているのではない。知らず知らずのうちにしてしまっているのである。神々にも見間違いや聞き間違いはあるのだ。根源の神にはないが、下位の神々にはある。だから「見直し、聞き直し」をしなさいと言っているのだ。根源の神に見直し聞き直しはない。スサナルの大神様(※国之常立神)は鼻の神様であり、嗅ぎ間違いがない。人民も嗅覚には間違いがない。鼻の誤りはないのだ。スサナルの大神様こそがこの世の本来の大神様なのだと申したであろう。過ちを犯した神々が、この世の罪穢れをすべてこのスサナルの大神様に着せて、無理やり北(艮)の方角に押し込めてしまったのだ。その結果、この地上を極悪の神が自分の思うがままに荒らし回った。そして人皇の世として世の中を曇らせ穢し、作り変え、次に仏の世となってさらに混ぜこぜにしてしまい、訳の分からない状態になった。さらにキリストの世にして、ますます分からなくしてしまい、悪の計画通りになっているのだぞ、分かったか。釈迦もキリストも立派な神ではあるが、今の仏教やキリスト教は、本来の教えから離れた偽物となっている。同じ名前の神でも善と悪の二つがあると申したであろう。 「ひふみよいむなやこと」がなくなっているのだ。「ひふみよいむなやこと」なくして、「ひふみよいむなやこと」は成らず。「ひふみよいむなやこと」でなければ、誠のことは実現できないのだ、分かったか。 「ひ(霊)」なきものは悪である。「ひ」とは霊であり、火であり、始め(一)である。世の中が暗闇となっているのも、この「ひ」がないからなのだ。この道理が分かるであろう。

【AIによる解釈】

この帖は、世界の根本的な成り立ちと現状の混乱の原因を明らかにしています。 まず、宇宙の根源的な法則・エネルギーである「ひふみよいむなやこと」が真の神性であると定義します。

そして、神話の再解釈を通して、本来この世を治めるべき正しき大神(スサナルノ大神=国之常立神)が、他の神々の罪を着せられて艮(うしとら、北東)の方角へ封印されたという、ひふみ神示の根幹をなす世界観が語られます。その結果、世界は「悪神」の支配下に置かれ、歴史(人皇の世→仏教→キリスト教)が進むにつれて真理は覆い隠され、人々は知らず知らずのうちに悪の仕組みに組み込まれてしまったと指摘します。

特に重要なのは「ひ」の概念です。「ひ」は「霊」「火」「一(始め)」であり、生命や神性の根源的エネルギーを象徴します。現代社会が混乱し暗闇となっているのは、この「ひ」が失われているからだと断じています。つまり、物質主義に偏り、霊的な本質を見失ったことが現代の根本問題であると警告しているのです。


第二帖 (三六七)

【原文】

三千年の昔に返すと申してあらうがな。よい御用いたす身霊(みたま)ほど苦労さしてあるのぢゃ。他から見ては、わからんなれど、苦労に苦労さして、生き変り、死に変り、鍛へに鍛へてあるのぢゃぞ。肉体の苦労も霊の苦労も、どちらの苦労にも、まけん人民臣民でないと、眼先のことで、グレングレンと引繰りかへりて、あわてふためく様なことでは、どんな事あっても、びくともせん、ミタマでないと、御用六ヶ敷いぞ。こんどの苦の花は真理(ふじ)に咲くのみざぞ。不二に九(こ)の花咲くや媛(ひめ)まつれと申してあるが、九(こ)の花、おのもおのもの心の富士にも咲くのざぞ。九(こ)の花咲けば、此の世に出来んことないぞ。まことの岩戸(いわと)かかりぞ。この先もう建替出来んギリギリの今度の大建替ぢゃ。愈々の建替ざから、もとの神代よりも、も一つキの光輝く世とするのぢゃから、中々に大層ざぞ。人民 苦しからうが、先楽しみに御用見事つとめ上げて下されよ。二つづつある神様を一つにするのであるから、嘘偽(うそいつわり)ちっともならんのぢゃ。少しでも嘘偽あったら、曇りあったら、神の国に住めんことになるのざぞ。途中から出来た道では今度と云ふ今度は間に合はんのざぞ。根本からの道でないと、今度は根本からの建直しで末代続くのぢゃから間に合はん道理わかるであらうがな。われの国同士の戦 始まるのぢゃ。この戦、神は眼あけて見ておれんなれど、これも道筋ぢゃから、人民にも見て居られんのぢゃが、友喰ひと申して知らしてあらうが。この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし、世にするのぢゃと申してあること愈々ざ、人民、臣民 勇んでやりて下され。神々様 守護神どの、勇め勇め。二月十六日、ひつ九のかミ。

【現代語訳】

三千年続いた悪の世を、本来の神の世に戻すと申したであろう。良い御用をする魂ほど、多くの苦労をさせてあるのだ。他人から見ても分からないだろうが、苦労に苦労を重ねさせ、何度も生まれ変わり死に変わりさせて、鍛えに鍛え抜いてあるのだ。肉体的な苦労も、霊的な苦労も、その両方に負けない人民・臣民でなければならない。目先のことに一喜一憂し、あわてふためくようでは駄目だ。どんなことがあってもびくともしない魂でないと、神の御用は務まらないぞ。今度の苦しみの先に咲く花は、真理(不二=富士)にのみ咲くのだ。「不二に九つの花が咲く、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀れ」と伝えてあるが、この九つの花は、各自の心の中にある富士(=真理)にも咲くのである。九つの花が咲けば、この世で出来ないことは何もない。それこそが誠の岩戸開きだ。これが最後の、もうこれ以上先延ばしにできないギリギリの大建て替えなのだ。いよいよの建て替えだから、元の神代の世よりも、さらに一段と光り輝く世にするのだから、大変なことなのだぞ。人民は苦しいだろうが、未来の楽しみを信じて、御用を見事に務め上げてくれよ。善と悪、二つに分かれていた神々を一つに統合するのだから、嘘や偽りは一切通用しない。少しでも嘘偽りや心の曇りがあれば、神の国には住めなくなるのだぞ。途中で作られたような教えや道では、今度の建て替えには間に合わない。根本からの道でなければ駄目だ。今度は根本からの建て直しであり、末代まで続く世を創るのだから、付け焼き刃では間に合わない道理が分かるだろう。自分の国の中での争いが始まるのだ。この戦は、神も目を開けて見ていられないほどだが、これも定められた道筋なのだ。人民にとっても見るに堪えないだろうが、「友喰い」が始まると知らせてあろう。我々神々が天地を自由にするのだ。元の気の道に戻し、新しい光の気に満ちた道を作るのだ。「あらたぬしの世」にすると申したことが、いよいよ始まる。人民、臣民よ、勇んでやり遂げてくれ。神々、守護神たちよ、勇め、勇め。

【AIによる解釈】

この帖は「大建て替え」の厳しさと、それに臨む者の心構えを説いています。 「三千年」という長きにわたる悪神の支配を終わらせ、元の神の世に戻すという壮大な計画が示されます。その担い手となる魂は、輪廻転生を通じて想像を絶する苦労を経験し、鍛え抜かれてきたとされます。これは、人生の苦難には魂を成長させるという霊的な意味があることを示唆しています。

「不二に九の花咲く」という比喩は中心的なメッセージです。「不二」は日本(富士)を指すと同時に「二つとない真理」を意味します。「九の花(このはな)」が、国(日本)と個人(心の中の富士)の両方に咲くことで、真の岩戸が開かれ、新しい時代が始まると説きます。これは、社会全体の変革と個人の内面的な覚醒が同時に必要であることを意味します。

また、嘘偽りが一切通用しないこと、根本からの道でなければならないこと、そして「友喰い」という内部対立の激化を警告しており、建て替えが非常に厳格で過酷なプロセスであることを強調しています。


第三帖 (三六八)

【原文】

天地引くるめて大建替いたすのぢゃ。天地のビックリ箱とはそのことざぞ。間違ひ出来んうちに、間違はん様 気つけて下されよ。出来てからは、いくら泣いても詫びしても後へは返せん。この方でもどうにもならん元のキの道ぢゃぞ。くどう気付けておくぞ。これまでは道はいくらもあったのぢゃが、これからの道は善一筋ざぞ。インチキ神の前には通らんのざぞ、心せよと知らしてあらうがな。三千年で世一キリといたすのぢゃぞ。まことの集まりが神徳ぢゃ、神徳つむと、世界中 見えすくのざぞ。神だけではこの世の事は成就せんと申してあらうがな。神がうつりて成就さすと申してあろうがな。こんなこと これまでにはなかりたぞ。二月十六日、一二(ひつぐ)のか三(み)。

【現代語訳】

天地を丸ごとひっくり返して、大建て替えをするのだ。「天地のビックリ箱」が開くとはそのことだぞ。間違いを犯して取り返しがつかなくなる前に、間違わないように気をつけなさい。事が起きてしまってからでは、いくら泣いて詫びても元には戻せない。これは私(神)の力でもどうにもならない、宇宙根源の「キ」の道筋なのだ。くどいようだが気をつけておくぞ。これまでは様々な道があったが、これからの道は「善」一筋しかない。ごまかしの神々の前では通用しないのだぞ、心せよと知らせてあろう。三千年続いた世を、ここで一区切りとするのだ。誠のものが集まること自体が神の徳となる。神徳を積めば、世界中のことが手にとるように分かるようになるのだ。神だけの力ではこの世の事は成就しないと申したであろう。神が人間に乗り移って事を成就させるとも申したであろう。このようなことは、これまでの歴史上、一度もなかったことなのだぞ。

【AIによる解釈】

この帖は、来るべき「大建て替え」が後戻り不可能な、絶対的な宇宙の法則であることを強調しています。 「天地のビックリ箱」という表現は、人々の常識や価値観が根底から覆るような、衝撃的な出来事が起こることを示唆しています。そして、それが始まってからでは手遅れであると、繰り返し強く警告しています。

これまでの時代は、多様な価値観や生き方が許容されていましたが、新しい時代への移行期においては「善一筋」の道しか残されないと断言します。これは、ごまかしや偽りが一切通用しない、誠の心が試される時代に入ることを意味します。

また、「神が人にうつりて成就さす」という言葉は、この大事業が神だけで行われるのではなく、神の意志を体現する人間との「神人一体」によって成し遂げられることを示しています。誠の心を持ち神徳を積んだ人間が、神の依り代となって世界を変えるという、人間の役割の重要性を説く、非常に重要なメッセージです。


第四帖 (三六九)

【原文】

元は十と四十七と四十八とあはせて百と五ぞ、九十五柱ざぞ。旧一月十五日、かのととり、一(ひ)つ九のか三(み)。

【現代語訳】

元は、十と四十七と四十八を合わせて百五であり、九十五柱の神である。

【AIによる解釈】

この帖は数霊(かずたま)を用いた、非常に象徴的で難解な記述です。 ここでの数字は、単なる数ではなく、それぞれが特定の神々や霊的な意味を持っていると考えられます。

  • : 完全、全体、根源の神を象徴する数。
  • 四十七・四十八: 伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の国産み・神産み神話に関連する数字や、言霊(ことだま)の四十七音・四十八音との関連が指摘されます。
  • 百と五、九十五柱: これらの数字の組み合わせによって、神々の世界の構造や秩序、あるいはこれから再編される神々の体制を示している可能性があります。

この帖の完全な解読は困難ですが、神の世界の秩序が厳密な数理的な法則に基づいており、今回の「大建て替え」がその根源的な秩序を回復・再編するプロセスであることを示唆していると解釈できます。


第五帖 (三七〇)

【原文】

人民 眼の先見えんから疑ふのも無理ないなれど、ミタマ磨けばよく判るのぢゃ、ついて御座れ、手引張ってやるぞ。誠の道行くだけではまだ足らんぞ。心に誠一杯につめて空っぽにして進みてくれよ、このことわからんと神の仕組おくれると申してあろうがな、早くなったところもあるなれど、おくれがちぢゃぞ。苦労、苦労と申しても、悪い苦労 気の毒ざぞ、よき苦労 花咲くぞ。花咲いて実結ぶのざぞ。人民 苦しみさえすればよい様に早合点してゐるなれど、それは大間違ひざぞ。神の道 無理ないと、くどう申してあらうがな。此の道理よく噛み分けて下されよ。神の国は元のキの国、外国とは、幽界とは生れが違ふのぢゃ。神の国であるのに人民 近慾なから、渡りて来られんものが渡り来て、ワヤにいたしてしまふてゐるのに、まだ近慾ざから近慾ばかり申してゐるから、あまりわからねば、わかる様にいたすぞ。眼の玉 飛び出すぞ。近くは仏魔渡り来て、わからんことにされてゐるであらうがな。五度の岩戸開き一度にせなならんと申してあらうが、生れ赤児の心で神示読めと申してあらうがな。二月十六日、ひつ九かミ。

【現代語訳】

人民は目先のことしか見えないから、神の計画を疑うのも無理はない。しかし、魂を磨けばよく分かるようになるのだ。ついて来なさい、手を引いてやろう。ただ誠の道を歩むだけではまだ足りないぞ。心に誠を一杯に満たした上で、我を空っぽにして進んでくれ。このことが分からないと神の仕組みが遅れると申したであろう。早まっている部分もあるが、全体としては遅れがちなのだ。苦労、苦労と言っても、悪い苦労は気の毒なだけだ。善き苦労は花が咲き、そして実を結ぶのだ。人民は、ただ苦しめば良いかのように早合点しているが、それは大きな間違いだぞ。神の道には無理がないと、くどいほど申しているであろう。この道理をよく噛み締めて理解してくれ。神の国(日本)は根源の「キ」の国であり、外国や幽界とはその成り立ちが違うのだ。神の国であるのに、人民が目先の欲に目がくらんでいるから、本来渡って来られないもの(異質な思想や霊的存在)が渡って来て、めちゃくちゃにしてしまっている。それなのにまだ目先の欲に囚われ、自分の利益ばかりを言っているから、あまりに分からなければ、分かるようにしてやるぞ。目の玉が飛び出すような思いをするぞ。身近なところでは仏教の姿をした魔(仏魔)が渡って来て、物事の道理を分からなくされているであろう。これまで四度の岩戸開きがあったが、今度はそのすべてを一度に成し遂げねばならないと申したであろう。生まれたばかりの赤子のような素直な心で、この神示を読みなさいと申したであろう。

【AIによる解釈】

この帖は、神を信じきれない人々への諭しと、正しい努力のあり方を説いています。 疑いの原因は「ミタマが曇り、目先のことしか見えない」からだとし、解決策として「ミタマ磨き」を提示します。さらに、単に真面目に生きるだけでなく、心を「誠」で満たし、かつ自我(我欲)を「空っぽ」にするという、より高い境地を求めています。これは、エゴを捨てて神の意志のパイプとなることの重要性を示しています。

また、苦労の本質について重要な指摘をしています。神の計画に沿った「善き苦労」は魂の成長につながり実を結びますが、自己満足や的外れな「悪い苦労」は無意味であるとします。これは、やみくもな苦行主義を否定し、神の道には無理がない(=宇宙の法則に沿っている)という原則を再確認させています。

最後に、日本の霊的な特殊性と、外国からの異質な影響によって混乱している現状を指摘し、事態の深刻さを「眼の玉 飛び出すぞ」と表現します。そして、この神示を固定観念なく、赤子のような純粋な心で読むことの重要性を説いて締めくくっています。


第六帖 (三七一)

【原文】

向ふの云ふこと、まともに聞いてゐたら、尻の毛まで抜かれてしまふのが、神にはよく判りて気つけてゐたのに、今の有様その通りでないか。まだまだ抜かれるものあるぞ。のばせばのばせば、人民まだまだ苦しいことになるぞ。延ばさねば助かる人民ないし、少しは神の心も察して下されよ、云ふ事きいて素直にいたされよ、神たのむぞ。愈々時節来たのであるから、何と申しても時節にはかなわんから、神示通りになって来るから、心さっぱり洗ひ晴らしてしまふて、持ち物さっぱり洗ひかへしてしまふて、神のみことに生きて呉れよ、みことになるぞ、タマぞ、ミコト結構ぞ。 一八五二六八八二三三一二三 卍千百三七六五卍十 十十八七六五曰一二三五六 八二三二一二三 六五八八 八八 十十二一三八七七八九二六 三二八五 一二 三 二一八九百一七 百 四七 九曰三八一三曰二 一九三三 九二 二五一二二二二三三 九一かつ十五にち ひつ九のか三 わからん裡にわかりてくれよ。旧一月十五日、ひつ九のかミ。

【現代語訳】

向こう(※戦勝国)の言うことを真に受けて聞いていたら、尻の毛まで残らず抜かれてしまうぞ、と神にはよく分かっていたから気をつけていたのに、今の有様はその通りではないか。まだまだ奪われるものはあるぞ。建て替えを先に延ばせば延ばすほど、人民はますます苦しいことになる。しかし、時間を延ばさなければ助かる人民がいないのも事実だ。少しは神のこのジレンマの心も察してくれ。言うことを聞いて素直に行動してくれ、神から頼むぞ。いよいよその時節が来たのだから、何と言っても時の流れには逆らえない。神示の通りになってくるから、心をさっぱりと洗い清め、持ち物(物質的なもの、古い価値観)もすっかり新しいものに入れ替えて、神の御心(みこと)のままに生きてくれ。そうすればそなた自身が尊い「みこと」となり、魂(タマ)となり、素晴らしい存在(ミコト)となるのだ。 (※以下、数霊による暗号) 分からないだろうが、その分からないうちに分かってくれよ。

【AIによる解釈】

この帖は、終戦直後(昭和21年)の日本の状況を強く反映しています。 「向ふ」とは当時のGHQや戦勝国を指し、その政策によって日本が骨抜きにされていく様を「尻の毛まで抜かれる」と痛烈に批判しています。

そして、神の抱えるジレンマが吐露されます。建て替えを急げば民衆の苦しみが増し、かと言って先延ばしにすれば日本の解体がさらに進んでしまう。この板挟みの状況の中で、人々に「素直に神の言うことを聞く」よう、切実に呼びかけています。

後半は、心を洗い清め、古い価値観や物質的な執着(持ち物)を捨て、完全に神の意志(みこと)に沿って生きることを求めています。そうすることで、人間自身が神聖な「ミコト」へと昇華できると説いています。

末尾の数字と記号の羅列は、解読が極めて困難な数霊(かずたま)の暗号です。これは、言葉では表現できない、あるいはまだ明かせない未来の計画や日時、重要な神理が込められているとされます。「わからん裡にわかりてくれよ」という言葉は、理屈で理解するのではなく、魂で直感的に感じ取ることの重要性を示唆しています。


第七帖 (三七二)

【原文】

この神の許へ来て信心さへして居たらよい事ある様に思ふてゐるが、大間違ひざぞ。この方の許へ参りて先づ借銭なしに借銭払ひして下されよ。苦しいこと出来て来るのが御神徳ぞ。この方の許へ来て悪くなったと云ふ人民 遠慮いらん、帰りて呉れよ。そんな軽い信心は信心ではないぞ。結構な苦しみがわからん臣民一人も要らんのぞ。しかと褌締めてついて御座れよ。此の方 悪神とも見えると申してあらうがな。わかりてもわからん、出来ん事致さすぞ、神が使ふのざから楽でもあるのざぞ。静かに神示よく肚に入れて御用して下されよ。神の道 光るぞ。旧一月十五日、一二(ひつぐ)のか三(み)。

【現代語訳】

この神のもとへ来て信心さえしていれば良いことがあるだろうと思っているようだが、それは大きな間違いだぞ。私のところへ参ったら、まずは借金(カルマ)を返しなさい。苦しいことが次々と起きてくることこそが、本当の御神徳なのだ。私のところへ来てから運が悪くなったと言う人民は、遠慮はいらないから帰ってくれ。そんな軽い信心は本当の信心ではない。この素晴らしい意味を持つ苦しみが分からない臣民は一人もいらないのだ。覚悟を決めて、しっかりとついて来なさい。私は見る者によっては悪神にも見えると申したであろう。理屈では分かっても到底理解できないような、普通では出来ないことをさせるぞ。しかし、神が使うのだから楽な面もあるのだ。静かに神示をよく腹に落とし込んで、御用をしてくれ。そうすれば神の道は光り輝くぞ。

【AIによる解釈】

この帖は、安易なご利益信仰を徹底的に打ち砕く、非常に厳しい内容です。 神を信じれば楽ができる、良いことがあるという考えは「大間違い」だと断言します。むしろ、この神の道に入るとは、自らが過去世から背負ってきた借金(カルマ)を清算するプロセスが始まることを意味します。そのため、病気、経済苦、人間関係のトラブルといった「苦しいこと」が次々と起こるが、それこそが魂を浄化し磨くための「御神徳」なのだと説きます。

この苦しみの意味を理解できず、不平不満を言うような安易な信仰者は不要であると突き放し、本気の覚悟を持つ者だけを求めます。 「悪神とも見える」「出来ん事を致さす」という言葉は、人間の常識や倫理観を超えた、苛烈な試練が与えられることを示唆しています。しかし、その厳しい道のりも、神と共に歩むことで「楽でもある」とし、最終的には「神の道 光るぞ」と、その先にある希望を約束しています。これは、信仰の真価が厳しく問われることを示す帖です。


第八帖 (三七三)

【原文】

此の方のコト、腹にひしひしと響き出したら、よき守護神となったのざぞ。神の国の元のミタマと外国のミタマとスッカリ取換へられてゐるのにまだ眼覚めんのか。神の国は真中の国、土台の国、神の元の鎮まった国と申してあらうがな。神の国であるぞ、我さへよけら、よその国、よその人民どうなってもよいといふ程に世界の臣民、皆なりてゐるが、表面(うわべ)ばかりよい事に見せてゐるが、中は極悪ぢゃ。気付いてゐる臣民もあるなれど、どうにも、手も足も出せんであらうがな。それが悪神に魅いられてゐるのぢゃぞ。道はあるに闇、祓ひ潔めて道見て進め。勇ましきやさかの道、光りあるぞ。二月十六日、一二(ひつぐ)のか三(み)。

【現代語訳】

私の言葉が、腹の底にひしひしと響くようになったら、そなたに善き守護神がついたということだぞ。神の国(日本)の本来の魂と、外国の魂がすっかり入れ替えられてしまっているというのに、まだ眼を覚まさないのか。神の国は世界の真ん中の国、土台となる国、根源の神が鎮まる国であると申したであろう。神の国なのだぞ。自分さえ良ければ、他の国や他の人民がどうなっても構わないという考えに、世界の民は皆なってしまっている。表面上は良いことのように見せかけているが、その内実は極悪なのだ。そのことに気付いている人民もいるだろうが、どうすることもできず、手も足も出せないでいるであろう。それが悪神に魅入られている状態なのだ。道はあるのに見えない闇の中にいる。祓い清めを行って、道をはっきりと見て進みなさい。その勇ましく、ますます栄える道には光があるぞ。

【AIによる解釈】

この帖は、霊的な覚醒のサインと、世界の偽善的な構造を告発しています。 まず、神示の言葉が頭での理解を超え、魂(腹)で感じられるようになった時、それは善き守護霊による導きが始まった証拠だとします。

そして、「日本の魂と外国の魂が入れ替えられている」という衝撃的な指摘をします。これは、戦後の価値観の転換により、日本人が本来持っていた霊性や精神性を失い、物質主義的・利己的な西洋的価値観に染まってしまったことを指していると考えられます。

さらに、世界全体が「自分さえ良ければよい」という極端な利己主義に陥っており、平和や人道を唱えるその裏側では、極悪な思惑が渦巻いていると断じます。多くの人がその欺瞞に気づきながらも、巨大なシステムの前で無力感に苛まれている状態を「悪神に魅入られている」と表現します。

解決策として「祓い清め」を提示します。これは、自身の心身や場の穢れを取り除くことで、悪神の影響から逃れ、本来見えるはずの正しい道を見出すことができる、という教えです。その先には光り輝く道が待っていると希望を示しています。


第九帖 (三七四)

【原文】

今度 捕へられる人民 沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。牢獄で自殺するものも出来て来るぞ。女、子供の辛いことになるぞ。九分通りは一度出て来るぞ、それまでに一度盛り返すぞ、わからんことになったら愈々のことになるのざぞ。みたま磨けよ。旧一月十五日、一二(ひつぐ)のか三(み)。

【現代語訳】

今度、捕らえられる人民が沢山出てくるが、今度こそはひどいものになるぞ。牢獄で自殺する者も出てくるだろう。女や子供にとって辛い時代になるぞ。事態が九分通りまで進んだところで、一旦は解放されるだろう。それまでには一度、世の中が盛り返す時期がある。しかし、その後、何が何だか分からないような混乱状態になったら、それが愈々(いよいよ)の最終段階の始まりなのだぞ。魂を磨きなさい。

【AIによる解釈】

この帖は、これから起こるであろう社会的な大混乱と試練について、具体的な描写を交えて警告しています。 「捕へられる人民が沢山にある」とは、物理的な逮捕・投獄だけでなく、思想的な弾圧や社会的な排除をも含んでいる可能性があります。その厳しさは「牢獄で自殺するものも出来て来る」という言葉に表れています。また、「女、子供の辛いこと」という表現は、社会的弱者が最も大きな犠牲を強いられることを示唆しています。

しかし、この困難な状況は一直線に進むわけではなく、一度は解放され、世の中が好転したかのように見える「盛り返し」の時期があると予言しています。これが一種の「偽りの夜明け」であり、多くの人々が油断するポイントかもしれません。

そして、その後に訪れる「わからんことになったら」、つまり常識では全く理解不能な大混乱が始まった時こそが、最終段階「愈々のこと」の合図であるとします。この最終局面を乗り越えるために、ただ一つ求められるのが「みたま磨けよ」という、ひふみ神示の根本的な教えなのです。


第十帖 (三七五)

【原文】

わからんミタマも今迄は機嫌取って引張りて来たなれど、もう機嫌取りは御免ぢゃ。こんなことに長う掛かりてゐたなら実地が遅れるから、ひときりにいたすぞ。神代となれば天は近くなるぞ、神人共にと申してあらうがな。一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ。信者引張ってくれるなよ。道は伝へて下されと申してあらうがな。竜宮の乙姫殿のお宝、誰にも判るまいがな。びっくり箱の一つであるぞ。キT(た)がよくなる、キたが光るぞ、きT(た)が一番によくなると申してあること段々に判りて来るのざぞ。これ程に申してもまだ疑ふ人民 沢山あるなれど、神も人民さんには一目置くのぞ、閉口ぞ、よくもまあ曇ったものぢゃなあ、疑ふなら今一度 我でやって見よれ、それもよいぞ、あちらこちらにグレングレンとどうにもならんのざぞ、人民には見当取れん大きな大きな大望ざから、その型だけでよいからと申してゐるのぢゃ、型して下されよ。改心の見込ついたら、世の元からの生神が、おのおのにタマ入れてやるから、力添へ致してやるから、せめてそこまで磨いて下されよ。悪はのびるのも早いが、枯れるのも早いぞ。いざとなればポキンぞ。花のまま枯れるのもあるぞ。二月十六日、一二の(ひつぐの)か三(み)。

【現代語訳】

理解できない魂に対しても、今までは機嫌を取りながら引っ張ってきたが、もう機嫌を取るのは終わりだ。こんなことに長く時間をかけていては、実際の計画が遅れてしまうから、一区切りつけるぞ。神の世になれば、天は近くなるのだ。神と人が共にある世になると申したであろう。たとえ一人になっても、神の言うことであればついて来る者こそが誠の者だ。誠の者が少しでもいれば、今度の計画は成就するのだ。人は沢山は要らない。信者を無理に集めてくるなよ。ただ道(教え)だけは伝えてくれと申したであろう。竜宮の乙姫様のお宝が何であるか、誰にも分かるまい。これも「びっくり箱」の一つなのだぞ。「キタ(北)」が良くなる、「キタ」が光るぞ、「キタ」が一番良くなると申してきたことが、段々と分かってくるのだぞ。これほど申してもまだ疑う人民が沢山いるが、神も人民の疑い深さには一目置くというか、ほとほと呆れているぞ。よくもまあここまで魂が曇ったものだなあ。疑うのなら、もう一度自分の力でやってみるがいい。それも良いだろう。しかし、あちこちで混乱が起きて、どうにもならなくなるだろう。これは人民には見当もつかないほど大きな大きな計画なのだから、その「型」だけでも良いから実践してくれと申しているのだ。型をやってくれ。改心の見込みがついた者には、この世の元からの生きた神が、一人一人に魂を入れ、力添えをしてやるから、せめてそこまで魂を磨いてくれ。悪は伸びるのも早いが、枯れるのも早い。いざとなればポキンと折れてしまう。栄華を極めた花のような姿のまま枯れてしまうものもあるぞ。

【AIによる解釈】

この帖は、神の姿勢が「宥和」から「選別」へと移行することを宣言しています。 これ以上、理解しようとしない者に時間をかけることはせず、たとえ少数でも「誠の者」だけで計画を断行するという厳しい決意が示されます。ここで重要なのは、信者の数を集めること(組織拡大)を禁じ、ただ純粋に「道を伝える」ことだけを求めている点です。これは、宗教ビジネス化への強い戒めと読めます。

「竜宮の乙姫殿のお宝」や「キタが良くなる」という謎めいた言葉は、未来に起こる驚くべき出来事や、これまで顧みられなかった場所や存在(北、艮)が中心となって輝く時代の到来を予言しています。

そして、疑う者に対しては「一度我でやって見よれ」と突き放しつつも、「型だけでよいから」と、完全な理解には至らなくても、神示に示された行動(祓い清め、祝詞など)を実践することの重要性を説きます。その「型」を実践し、改心の兆しが見えた者には、神が直接介入して力を与えると約束しています。最後に、悪の繁栄は一時的で、いざという時にはあっけなく滅びることを示唆し、誠の道を進む者たちを力づけています。


第十一帖 (三七六)

【原文】

誰の苦労で此の世出来てゐると思ふてゐるのぢゃ。此の世を我がもの顔にして御座るが、守護神よ、世を盗みた世であるくらゐ、わかってゐるであらうがな。早う元にかへして改心いたされよ、神国(かみくに)の王は天地の王ざぞ、外国(とつくに)の王は人の王ざぞ。人の王では長う続かんのぢゃ。外国にはまだまだ、きびしいことバタバタに出て来るぞ、日本にもどんどん出て来るぞ。云はねばならんことあるぞ。出づ道は二つ、一はひらく道、二は極む道、道出で世に満つ、ゑらぎゑらぐ世ぞ。前に書かしてあること、よく読めばわかるのぢゃ、御身(みみ)に利(き)かして御身でかかしたもの二曰(じし)んの巻といたせよ。いよいよア(あ)ら九(く)なって来るのざぞ。因縁みたま結構となるのざぞ。旧一月十五日、ひつ九のか三神示。

【現代語訳】

一体誰の苦労によってこの世界が出来ていると思っているのか。この世を我が物顔で支配しているが、今の世を支配する守護神たちよ、お前たちの世が、本来の神から盗んだ世であることくらいは分かっているであろう。早く元の神にお返しして改心しなさい。神の国(日本)の王は天地宇宙の王だが、外国の王は人間の王に過ぎない。人間の王では長くは続かないのだ。外国にはこれから、まだまだ厳しい出来事が次々と起こるぞ。日本にもどんどん出てくるぞ。言わねばならないことがある。現れ出る道は二つある。一つは「ひらく道」、もう一つは「きわむ道」だ。その道が世に満ちて、人々がそれぞれに道を選ぶ、えらぎ(選び)の世となるぞ。前に書いたことをよく読めば分かることだ。この神示を自分のこととして捉え、自分自身で書いた「自身の巻」として読みなさい。いよいよ世の中は荒々しくなってくるぞ。しかし、それを乗り越えれば、因縁ある魂は素晴らしいものとなるのだぞ。

【AIによる解釈】

この巻の最終帖は、現在の世界の支配者層(「守護神」と表現)への最後の通告と、未来への展望を語っています。 まず、現在の支配体制は本来の神から世を「盗んだ」ものであると断じ、速やかな改心と返還を要求します。そして、「神国の王=天地の王」「外国の王=人の王」という対比によって、日本の持つ霊的な中心性と、人間的な権力のはかなさを説きます。

これから日本にも外国にも厳しい出来事が続発する中で、人々の前には二つの道が示されるとします。

  1. ひらく道: 神の計画を受け入れ、新しい世界へと自らを開いていく道。弥栄(いやさか)への道。
  2. きわむ道: 物質や自我に固執し、古い世界と共に終わりを極める道。滅びへの道。

未来は、人々がこの二つの道からどちらかを選ぶ「えらぎの世」になると予言します。その選択を迫るために、この神示を他人事ではなく、自分自身の物語「自身の巻」として真剣に読むよう強く促しています。 最後に「いよいよアら九(荒く)なって来る」と世の荒廃を警告しつつも、その試練を乗り越えた先には、因縁ある魂が救われ、素晴らしい結果を得るという希望のメッセージで締めくくられています。

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