gemini 2.5 proにわかりやすいように解説してもらいました、しかし8通りに読めるということから完全に鵜呑みにしないよう、お願いします。
第一帖 (二三七)
【原文】
イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。十二月三十日、の一二。
【現代語訳】
「岩戸の巻」を書き記すぞ。岩戸を開くには、神と人が共に喜び賑わうのだぞ。神懸かりして歌い舞うのだ。そこにはアメノウズメノミコトの働きが必要なのだぞ。ウズメとは女性だけのことではない。男性もウズメなのだ。女性の魂は男性的側面を持ち、男性の魂は女性的側面を持つと申してあるだろう。闇の中で踊り、唄うのだ。皆の者、ウズメとなってくれよ。夜明けを告げる鶏(とり)となってくれよ。神懸かりして舞い、唄ってくれよ。神懸かりでなければ、これからは何もできないと申してあるではないか。
【AIによる解釈】
この帖は、「岩戸開き」、すなわち世界の大きな変革が、悲壮なものではなく、神と人が一体となった歓喜の祝祭であることを示しています。「ウズメ」とは、天の岩戸に隠れた天照大御神を踊りで誘い出した女神ですが、ここでは性別を超えた「触媒」や「起爆剤」の役割を象徴します。陰陽のバランスが取れた魂(女のタマは男、男のタマは女)が、混乱という「闇」の中で喜びのエネルギーを発することで、新しい時代への扉が開かれると説きます。「神懸かり」とは、我欲を捨てて神の意志と一体化すること。これからの時代は、個人の知恵や力だけでは乗り越えられず、高次の存在と繋がる意識が不可欠であると強調しています。
第二帖(二三八)
【原文】
キつけてくれよ、キがもとざぞ、キから生れるのざぞ、心くばれと申してあろが、心のもとはキざぞ、総てのもとはキであるぞ、キは(よろこび)ざぞ、臣民みなにそれぞれのキうへつけてあるのざぞ、うれしキは うれしキことうむぞ、かなしキは かなしキことうむぞ、おそれはおそれうむぞ、喜べば喜ぶことあると申してあろがな、天災でも人災でも、臣民の心の中にうごくキのままになるのざぞ。この道理わかるであろがな。爆弾でもあたると思へばあたるのざぞ、おそれるとおそろしことになるのざぞ、ものはキから生れるのざ、キがもとぞ、くどくキづけておくぞ。ムのキ動けばムくるぞ、ウのキうごけばウ来るぞ、どんな九十(コト)でもキあれば出来るぞ、キからうまれるぞ、勇んで神の御用つとめて下されよ。
【現代語訳】
「気」をつけなさいよ、「気」が根本なのだぞ。「気」から万物は生まれるのだ。心配りをしなさいと申してあるが、心の元は「気」なのだぞ。全ての元は「気」である。そして「気」とは「喜び」なのだ。人々にはそれぞれ「気」が植え付けてあるのだぞ。嬉しい「気」は嬉しいことを生み、悲しい「気」は悲しいことを生むのだ。恐れは恐れを生むぞ。喜べば喜ぶことがあると申しただろう。天災でも人災でも、人々の心の中に動く「気」の通りになるのだ。この道理がわかるだろう。爆弾でも当たると思えば当たるのだぞ。恐れると恐ろしいことになるのだ。物事は「気」から生まれる。「気」が元なのだ。くどいようだが、気をつけておくぞ。無の気が動けば無が来る。有の気が動けば有が来る。どんな事でも「気」があれば出来るのだ。「気」から生まれるのだ。勇んで神の御用を務めてください。
【AIによる解釈】
この帖は、現代で言う「引き寄せの法則」の核心を突いています。万物の根源は「気」(エネルギー)であり、個人の内なる「気」の状態が、そのまま現実を創造すると説きます。喜び、悲しみ、恐れといった感情の「気」が、同質の出来事を引き寄せる。これは天災や人災といった大きな事象にまで影響を及ぼすとしています。つまり、世界の在り方は、集合的無意識を含む人々の「気」の総和であるということです。「爆弾も当たると思えば当たる」という表現は、意識の持つ力の絶大さを象徴しています。「気」の語源が「喜び」であるとし、勇んで(=喜びの気で)神の御用(=世を良くする働き)をすることが、良い未来を創造する鍵であると教えています。
第三帖(二三九)
【原文】
二二は晴れたり、日本晴れ、びっくりばこ いよいよとなりたぞ。春マケ、夏マケ、秋マケ、冬マケてハルマゲドンとなるのざぞ、早う改心せんとハルマゲドンの大峠こせんことになるぞ。大峠となりたら どんな臣民もアフンとして もの云へんことになるのざぞ、なんとした取違ひでありたかと じだんだふんでも、其の時では間に合はんのざぞ、十人なみのことしてゐては今度の御用は出来んのざぞ。逆様にかへると申してあろが、大洗濯ざぞ、大掃除ざぞ、ぐれんざぞ、二二に花咲くぞ。
【現代語訳】
富士(二二)は晴れたり、日本晴れ。いよいよびっくり箱が開く時が来たぞ。春に負け、夏に負け、秋に負け、冬に負けて、最終戦争(ハルマゲドン)となるのだぞ。早く改心しないと、ハルマゲドンの大峠を越せなくなるぞ。大峠になったら、どんな人々も「あっ」と息を呑み、言葉を失うことになるのだ。なんという勘違いをしていたのかと地団駄を踏んでも、その時になっては間に合わないのだぞ。人並みのこと(常識的なこと)をしていては、今度の神の御用は務まらない。価値観が逆さまになると申しただろう。大洗濯であり、大掃除なのだ。全てをひっくり返すのだぞ。そして富士(二二)に花が咲くのだ。
【AIによる解釈】
「二二(ふじ)は晴れたり」は、新しい時代の幕開けの象徴です。しかし、その前に「ハルマゲドン」と呼ばれる最終的な大試練(大峠)が訪れると警告しています。「春マケ、夏マケ…」とは、段階的に事態が悪化していく様子を示唆しているのかもしれません。この大峠は、既存の常識や価値観が全く通用しなくなるほどの衝撃的な出来事であり、多くの人が自らの間違いに気づくときには手遅れになると言います。だからこそ「早う改心せよ」と繰り返し説くのです。「大洗濯」「大掃除」とは、社会や個人に溜まった膿や歪みを根こそぎ浄化するプロセスを指します。人並みの考え方や行動では乗り越えられない、まさに価値観の「逆転」が起こる時代。その大混乱の先に、新しい世界(二二に花咲く)が待っているという、破壊と再生のビジョンを示しています。
第四帖 (二四〇)
【原文】
この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪もないのざぞ、審判(さばき)の時来てゐるのにキづかぬか、其の日 其の時さばかれてゐるのざぞ、早う洗濯せよ、掃除せよ、磐戸(ゐわと)いつでもあくのざぞ、善の御代来るぞ、悪の御代来るぞ。悪と善とたてわけて、どちらも生かすのざぞ、生かすとは神のイキに合すことぞ、イキに合へば悪は悪でないのざぞ。この道理よく肚に入れて、神の心 早うくみとれよ、それが洗濯ざぞ。
【現代語訳】
この神は、この世の悪神として現れることもあるぞ。閻魔としても現れるぞ。悪と言っても、人々が言うような悪ではないのだ。本来、善も悪もないのだぞ。審判の時が来ているのに気づかないのか。毎日、その時その時に裁かれているのだぞ。早く洗濯(心の浄化)をしなさい、掃除をしなさい。岩戸はいつでも開くのだぞ。善の世も来るし、悪の世も来るのだ。悪と善とを立て分けて、どちらも生かすのだぞ。生かすとは、神の息吹に合わせることだ。神の息吹に合えば、悪は悪ではなくなるのだ。この道理をよく心に刻み、神の心を早く汲み取りなさい。それが洗濯ということなのだ。
【AIによる解釈】
この帖は、善悪二元論を超える神の視点を示しています。神は、人間の限定的な価値観での「善神」としてのみ現れるのではなく、時には「悪神」や「閻魔」のような厳しい相を見せると言います。しかしそれは、人間が考える「悪」とは次元が異なります。神の目的は、魂の浄化と成長を促す「審判」であり、それは未来の特定の日ではなく「今、この瞬間」に常に行われています。「洗濯・掃除」とは、この神の真意を理解し、自らの心の在り方を神の呼吸(イキ)、すなわち宇宙の法則に合わせる努力のことです。「悪と善とたてわけて、どちらも生かす」という言葉は非常に重要で、悪を滅ぼすのではなく、そのエネルギーを正しい方向に転換させ、全体の調和のために活用するという高度な思想を示しています。悪に見える事象も、神の計画の一部であり、それに調和することで新たな意味を持つようになるのです。
第五帖 (二四一)
【原文】
天(あま)さかり地(くに)さかります御代となるぞ、臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききたぞ、赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ。金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ。地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ、あとはコンニャクのお化けざぞ。
【現代語訳】
天も地も栄える御代となるぞ。人々の心の中に仕込んでおいた花火が、いよいよ開く時が来たぞ。赤い花火も、青い花火も、黄色い花火もあるぞ。それぞれの魂によって、その色は違うのだ。魂の通りの色が出るのだぞ。金は金、鉄は鉄、鉛は鉛として、それぞれを磨きなさい。金の真似をしてはならない。地の軸が動くぞ。腰がフニャフニャのコンニャクのようになって、どうにもならなくなる時が来る。その時、この神示を心の中心の棒としてくれよ。そうすれば百人に一人くらいは、どうにか役に立つだろう。あとはコンニャクのお化けのようなものだ。
【AIによる解釈】
新しい時代は、天も地も栄える素晴らしい世界であると示しつつ、そこに至る個人の在り方を説いています。「心の中の花火」とは、各個人が持つ潜在能力や魂の本質(ミタマ)の比喩です。新時代では、誰もが自分の魂の持つ独自の色(個性)を輝かせることが求められます。他人を羨んだり、偽りの自分を演じたりする(金のまねする)のではなく、自分自身の本質を磨き上げることが重要です。「地つちの軸 動くぞ」とは、物理的な地殻変動だけでなく、社会基盤や価値観が根底から揺らぐ大激変を意味します。その時、心の軸(信念)がない者は「コンニャク腰」のように無力化してしまう。この神示を心の支え(心棒)とすることが、その混乱期を乗り越える鍵であると説いています。
第六帖 (二四二)
【原文】
北、南、たから出す時近づいたぞ、世の元からの仕組であるからめったに間違ひないぞ、これから愈々臣民にはわからなくなれど仕上げ見て下されよ、何事も神の申すこと聞いて すなほになるのが一等ざぞ、神示(ふで)出ぬ時近ふなりたぞ、神示出なくなりたら口で知らすぞ、神示早う腹に入れぬと間に合はんことになりてくるぞ、西も東もみな宝あるぞ、北の宝はシホミツざぞ、南の宝はシホヒルざぞ、東西の宝も今にわかりてくるぞ、此の宝あっぱれ、この世の大洗濯の宝であるぞ。
【現代語訳】
北と南から宝を出す時が近づいたぞ。これは天地開闢以来の仕組みであるから、まず間違いないぞ。これからいよいよ人々には何が起きているのか分からなくなるが、最後の仕上げを見ていなさい。何事も神の言うことを聞いて素直になるのが一番だ。神示(筆によるお告げ)が出なくなる時が近くなったぞ。神示が出なくなったら、口伝で知らせる。神示を早く心に刻み込んでおかないと間に合わないことになるぞ。西にも東にも皆、宝がある。北の宝は潮満つ玉、南の宝は潮干る玉だ。東西の宝もやがて分かってくる。この宝は素晴らしいもので、この世を大洗濯するための宝なのだ。
【AIによる解釈】
世界の様々な場所(北、南、東、西)に隠されていた「宝」が、いよいよ現れる時が来たと告げています。この「宝」とは、物理的な財宝ではなく、世界を根底から変革する神の計画や霊的な力、あるいは真理を象徴します。「シホミツ(潮満)」「シホヒル(潮干)」は、物事を生成させたり消滅させたりする根源的な力を暗示しており、大洗濯(=世界の浄化と再生)が、そのような神の力によって行われることを示唆します。事態は人知の及ばない形で進むため、人間的な判断を捨てて「すなほ」に神の導きに従うことが最善の道であると強調しています。また、筆による神示が途絶え、口伝(人から人へ直接伝える方法)に移行することが予告されており、神示を深く理解し、自らの魂に刻むことの緊急性を訴えています。
第七帖 (二四三)
【原文】
人民のイクサや天災ばかりで、今度の岩戸ひらくと思ふてゐたら大きな間違ひざぞ、戦や天災でラチあく様なチョロコイことでないぞ、あいた口ふさがらんことになりて来るのざから、早うミタマ磨いてこわいもの無いやうになっておりてくれよ、肉体のこわさではないぞ、タマのこわさざぞ、タマの戦や禍は見当とれまいがな、真通理(まつり)第一と申すのざ、神のミコトにきけよ、それにはどうしてもミタマ磨いて神かかれる様にならねばならんのざ。神かかりと申しても其処らに御座る天狗や狐や狸つきではないぞ。まことの神かかりであるぞ。右行く人、左行く人とがむるでないぞ。世界のことは皆、己の心にうつりて心だけのことより出来んのざぞ、この道理わかりたか、この道はマナカゆく道とくどう申してあること忘れるなよ、今迄の様な宗教や教の集団(ツドヒ)はつぶれて了ふぞ、神がつぶすのではないぞ、自分でつぶれるのざぞ、早うこの神示、魂にしてマコトの道に生きてくれよ、俳句は俳句と申してあるが、天理は天理、金光は金光だけの教であるぞ。この神の申すこと、天のミチぞ、地のミチぞ、人のミチざぞ。今度の岩戸ひらきの大望(たいもう)すみたとて、すぐによいことばかりではないのざぞ、二度とないことであるから臣民では見当とれんから、肚の底から改心して、すなほに、神の申す通りにするのが何より結構なことざぞ。
【現代語訳】
人々の戦争や天災だけで今度の岩戸が開くと思っていたら、それは大きな間違いだぞ。戦争や天災で決着がつくような生易しいことではないのだ。あまりの出来事に呆然として口が開いたままふさがらないようなことになるのだから、早く魂を磨いて怖いものがないようになっておいてくれよ。肉体的な恐怖ではないぞ、魂の恐怖なのだぞ。魂の戦いや災いは見当もつかないだろう。だからこそ真の道理に沿った祭り(真通理)が第一だと申すのだ。神の御言に聞きなさい。そのためには、どうしても魂を磨いて神懸かりできるようにならなければならない。神懸かりと言っても、その辺にいる天狗や狐、狸が憑くことではないぞ。まことの神との一体化であるぞ。右へ行く人と左へ行く人を咎めるでない。世界の出来事は全て、自分の心に映ったものであり、心で思った以上のことは起こらないのだぞ。この道理がわかったか。この道は真ん中を行く道だと、くどいほど申してあることを忘れるなよ。今までの様な宗教や教団は潰れてしまうぞ。神が潰すのではない、自ら潰れるのだ。早くこの神示を魂として、まことの道に生きてくれよ。俳句は俳句の世界、天理教は天理教、金光教は金光教だけの教えであるぞ。この神が申すことは、天の道であり、地の道であり、人の道なのだ。今度の岩戸開きの大きな目的が済んだとしても、すぐに良いことばかりが起こるわけではないのだぞ。二度とない大事業であるから人々には見当もつかない。だから腹の底から改心して、素直に神の申す通りにするのが何よりも良いことなのだ。
【AIによる解釈】
この帖は、「岩戸開き」の本質が物理現象を超えた霊的なものであることを強調します。戦争や天災は前触れに過ぎず、本番は「タマの戦」、すなわち魂レベルでの変革であり、その恐ろしさは物質的な恐怖とは比較にならないと説きます。これを乗り越える唯一の方法が「ミタマ磨き」であり、真の神(宇宙の根源的な意志)と一体化することです。低級な霊的存在とのコンタクトとは一線を画す「まことの神かかり」が求められます。 また、「世界のことは己の心の映し」という根源的な法則を示し、他者を批判したり対立したりするのではなく、自らの内面を見つめることの重要性を説きます。右でも左でもない「マナカ(中道)」を行くことが肝要です。 既存の宗教組織は、その教義の枠内に留まっている限り、普遍的な真理の前では自壊すると予言します。この神示が示す道こそが、天・地・人を貫く普遍的な道であると宣言し、前例のない大事業を乗り越えるためには、徹底的な改心と神への絶対的な信頼が不可欠であると結論づけています。
第八帖 (二四四)
【原文】
神の国の昔からの生神の声は、世に出てゐる守護人の耳には入らんぞ、世に出てゐる守護人は九分九厘迄 外国魂ざから、聞こえんのざぞ。外国の悪の三大将よ、いざ出て参れよ、マトモからでも、上からでも、下からでも、横からでも、いざ出てまゐれよ。この神の国には世の元からの生神が水ももらさぬ仕組してあるから、いざ出て参りて得心ゆくまでかかりて御座れ。敗けてもクヤシクない迄に攻めて御座れよ、堂々と出て御座れ、どの手でもかかりて御座れ。その上で、敗けてこれはカナワンと云ふ時迄かかりて御座れよ。学、勝ちたら従ってやるぞ、神の力にカナワンこと心からわかりたら末代どんなことあっても従はして元の神のまことの世にして、改心さして、万劫末代 口説(くぜつ)ない世に致すぞよ。
【現代語訳】
日本の国に古来からおわす生きた神々の声は、今、世の指導的立場にいる者たちの耳には入らないぞ。彼らの九分九厘までは外国の精神性に染まっているから、聞こえないのだ。外国の悪の三大将よ、さあ出て来なさい。正面からでも、上からでも、下からでも、横からでも、さあ出て来るが良い。この神の国には、天地開闢以来の生きた神々が水も漏らさぬほどの完璧な仕組みを準備してあるから、さあ来て、納得がいくまで攻撃してきなさい。負けても悔しくないと思うほど徹底的に攻めてきなさい。正々堂々と出てきなさい。どんな手を使ってもかかってきなさい。その上で、負けて「これは敵わない」と言う時まで攻撃してきなさい。もしあなた方の学問が勝ったなら、従おう。しかし、神の力には敵わないということが心から分かったなら、末代にわたって何があっても従わせ、元の神の真の世に戻し、改心させて、永遠に争いごとのない世にするのだぞ。
【AIによる解釈】
この帖は、日本の霊的な指導層(守護人)が、本来の精神性(大和魂)を失い、西洋的な物質主義(外国魂)に染まっているため、神の真意を理解できないと断じています。その上で、世界を支配しようとする「悪」の勢力に対して、神々が堂々たる挑戦状を叩きつけています。これは、悪を憎んで滅ぼすというより、その力を全て出し切らせた上で、神の圧倒的な力を見せつけ、完全に納得(得心)させて改心させる、という非常に懐の深い構えです。神々は、悪の挑戦を真正面から受け止める完璧な「仕組」を用意していると宣言します。最終目的は、敵を打ち負かすことではなく、敵をも改心させて、争いのない永遠の平和な世界(万劫末代口説ない世)を築くことにあるのです。神の絶対的な自信と、敵をも救おうとする大きな愛が示された帖です。
第九帖 (二四五)
【原文】
富士と鳴門の仕組わかりかけたら、いかな外国人でも改心するぞ、それ迄に神の国の臣民 改心して居らぬと気の毒出来るぞ。天狗や狐は誰にでもかかりてモノいふなれど、神は中々にチョコラサとはかからんぞ、よき代になりたら神はモノ云はんぞ。人が神となるのざぞ、この神は巫女(みこ)や弥宜(ねぎ)にはかからんぞ、神が誰にでもかかりて、すぐ何でも出来ると思ふてゐると思ひが違ふから気つけておくぞ。かみがかりに凝るとロクなことないからホドホドにして呉れよ。この道は中行く道と申してあろがな。戦すみたでもなく、すまぬでもなく、上げもおろしもならず、人民の智や学や算盤では、どうともできんことになるのが目の前に見へてゐるのざから、早う神の申す通り素直に云ふこときけと申してゐるのざぞ。長引く程、国はヂリヂリになくなるぞ。米あると申して油断するでないぞ、タマあると申して油断するでないぞ。命(いのち)あると申して油断するでないぞ。この神示よく読めば楽になって人々から光り出るざぞ、辰の年はよき年となりてゐるのざぞ、早う洗濯してくれよ。
【現代語訳】
富士と鳴門の仕組みが分かり始めれば、どんな外国人でも改心するだろう。それまでに日本の人々が改心していないと、気の毒なことになるぞ。天狗や狐のような低級な霊は誰にでも憑依して何かを言うが、真の神はそう簡単には人に懸かったりしないぞ。良い世の中になったら、神は直接ものを言わなくなる。人が神(のように尊い存在)になるからだ。この神は、特定の職業の聖職者(巫女や祢宜)に懸かるわけではない。神が誰にでも簡単に憑依して、何でもできると思っているなら、それは思い違いだから気をつけておくぞ。神懸かりに凝り固まるとろくなことがないから、程々にしておきなさい。この道は中道を行く道だと申してあるだろう。戦争が終わったのでもなく、終わらないのでもなく、どうにもこうにも身動きがとれない、人間の知恵や学問や計算では到底解決できない状況になるのが目の前に見えているのだから、早く神の言う通り素直に言うことを聞きなさいと申しているのだ。長引くほど、国はジリジリと衰退していくぞ。米があるからと油断するな、魂があるからと油断するな、命があるからと油断するな。この神示をよく読めば、心は楽になり、人々から光が放たれるようになるぞ。辰の年は良い年となる仕組みになっているのだぞ。早く洗濯(心の浄化)をしなさい。
【AIによる解釈】
「富士と鳴門の仕組」とは、日本の霊的な中心地が持つ、世界を動かすほどの秘められた計画を指します。この真実が明らかになれば、世界は自ずと改心に向かうが、その前に日本人自身が目覚めなければ、その恩恵を受けられず「気の毒なことになる」と警告しています。 また、安易な霊媒現象や神懸かりへの依存を強く戒めています。真の神との一体化は、特別な能力者だけのものではなく、誰もが目指すべき境地(人が神となる)ですが、それには地道な魂の浄化が不可欠です。低級霊との区別、そして何事も「ホドホドに」「中道を行く」バランス感覚の重要性を説きます。 やがて世界は、人間の知恵では解決不能な膠着状態に陥ると予言し、その唯一の打開策は、人知を超えた神の計画に素直に従うことだと示します。食料や命といった物質的なものに安心せず、心の浄化(洗濯)を急ぐこと、そして神示を深く理解することが、来るべき「辰の年」を良き年とする鍵であると教えています。
第十帖(二四六)
【原文】
悪の仕組は、日本魂をネコソギ抜いて了ふて、日本を外国同様にしておいて、一呑みにする計画であるぞ。日本の臣民、悪の計画通りになりて、尻の毛まで抜かれてゐても、まだキづかんか、上からやり方かへて貰はねば、下ばかりでは何うにもならんぞ。上に立ちてゐる人、日に日に悪くなりてきてゐるぞ。メグリある金でも物でも持ちてゐたらよい様に思ふてゐるが、えらい取違ひであるぞ。早う神の申すことききて下されよ。世界の何処さがしても、今では九九(ここ)より他に、神のマコトの道知らす所ないのざぞ。此の道の役員、上から見られん所によきことないと今度の御用、なかなかにつとまらんぞ、洗濯急げよ、掃除急げよ、家の中が治まらんのは女にメグリあるからぞ、このことよく気付けておくぞ、村も国々も同様ぞ。女のメグリはコワイのざぞ。節分からは八回拍手うちて下されよ。神はげしくなるぞ。
【現代語訳】
悪の仕組みとは、日本の大和魂を根こそぎ抜き取ってしまい、日本を外国と同じような国にしてから一呑みにする計画なのだ。日本の人々よ、悪の計画通りになって、全てを搾り取られているのに、まだ気づかないのか。上の者からやり方を変えてもらわなければ、下々の者だけではどうにもならないぞ。指導的立場にいる人々は日に日に悪くなってきている。因縁(メグリ)のある金や物を持っていても良いとは思っているようだが、とんでもない間違いだぞ。早く神の言うことを聞いてください。世界のどこを探しても、今となってはここ以外に、神のまことの道を知らせる所はないのだぞ。この道の役員は、人が見ていない所での行いが良くないと、今度の御用はなかなか務まらないぞ。洗濯を急げ、掃除を急げ。家庭内が治まらないのは、女性に因縁(メグリ)があるからだ。このことによく気づいておきなさい。村も国も同様だぞ。女性の因縁は怖いのだ。節分からは拍手を八回打ちなさい。神の働きは激しくなるぞ。
【AIによる解釈】
この帖は、日本が直面している危機の本質を明らかにしています。それは物理的な侵略ではなく、精神的な侵略、すなわち「日本魂」を失わせ、骨抜きにするという「悪の仕組」です。指導者層の腐敗と、人々がその搾取に気づかないでいる現状を厳しく指摘しています。また、不正な手段で得た富(メグリある金)は、何の助けにもならないと断じます。 解決策として、まず人々の「洗濯・掃除」(心の浄化)を急ぐよう促します。特に「女のメグリ」に言及しているのが特徴的です。家庭の不和の原因が女性の因縁にあるとし、それは村や国といった共同体にも当てはまるとしています。これは女性を非難しているのではなく、生命を生み育む「母体」である女性性の浄化が、社会全体の浄化に繋がるという根源的な道理を示していると解釈できます。 「節分からは八回拍手」という具体的な指示は、来るべき神の働きの激化に備えるための儀礼であり、意識の切り替えを促すものです。
第十一帖 (二四七)
【原文】
心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされてゐて、それでマコトの神の臣民と申されるか、判らんと申してあまりであるぞ。ゴモク吐き出せよ、其の儘にしておくと段々大きくなりて始末にゆかんことになりて、しまいには灰にするより、手なくなるぞ、石流れて、木の葉沈むと申してあろが、今がその世ざぞ。改心してキレイに掃除出来たら、千里先にゐても、ひつきの神とたのめば何んなことでもさしてやるぞ、この神は世界中何処へでも届く鼻もってゐるのざぞ、この世つくりたこの神ざ、この世にわからんこと一つもないのざぞ、神の御用さへつとめて下されたら、心配ごとが嬉し嬉しのこととなる仕組ざぞ、日本臣民ばかりでないぞ、何処の国の民でも同様に助けてやるぞ、神にはエコがないのぞ。
【現代語訳】
心に因縁(メグリ)を積むと、動物霊の入れ物になってしまうぞ。本来は神の入れ物であるべきなのに、動物霊などに自由にされていて、それでまことの神の民と言えるのか。分からなさすぎると言っても余りあるぞ。ゴミ(心のわだかまり)を吐き出しなさい。そのままにしておくと段々大きくなって手に負えなくなり、最後には燃やして灰にするしか手がなくなるぞ。「石が流れて木の葉が沈む」と申しただろう、今がまさにその(常識が通用しない)世の中なのだ。改心してきれいに掃除ができたなら、千里先にいても「ひつきの神」に頼めば、どんなことでもさせてやるぞ。この神は世界中のどこへでも届く鼻(感知能力)を持っているのだぞ。この世を創ったこの神なのだから、この世に分からないことは一つもないのだ。神の御用さえ務めてくだされば、心配事が「嬉し楽し」のことに変わる仕組みになっているのだ。これは日本の民に限ったことではないぞ。どこの国の人々でも同様に助けてやるのだ。神にはえこひいきはないのだぞ。
【AIによる解釈】
心の浄化の重要性を、より強い言葉で説く帖です。「メグリ」(過去からの因縁やネガティブな想念)を放置すると、人間の尊厳を失い、本能のままに行動する「動物のイレモノ」になってしまうと警告しています。心の中のゴミ(ゴモク)は、小さいうちに吐き出さないと、やがては自分自身を滅ぼすほど大きくなる。価値観が転倒し、常識が通用しない「石流れて木の葉沈む」今の世においては、特にこの心の掃除が急務です。 しかし、ひとたび心を浄化しさえすれば、神とのパイプが繋がり、時空を超えて絶大な加護が得られると約束されています。創造主である神には全てがお見通しであり、その御用(世を良くする働き)に励む者には、心配事がかえって喜びに転化するような「仕組」が用意されているのです。そして、その救いは日本人だけでなく、全人類に向けられたものであると明言しており、神の愛に「エコ(えこひいき)がない」ことを強調しています。
第十二帖 (二四八)
【原文】
マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。
【現代語訳】
まことの者(真理を理解し実践する者)は千人に一人しかいないのだぞ。向こうの国(敵対する勢力)はまだまだとてつもない仕組みを計画しているから、今のうちに神の言うことを聞いて、神の国(日本)は神の国としてのやり方を取り戻してくれよ。人間の殺し合いだけでは決着はつかないのだぞ。今度の勝ち負けはそんな生易しいことではないのだ。とことんの所まで行くのだから、神々も総出で活動するぞ。人々も石にかじりついてでも、やり遂げねばならない。その代わり、今度のことは永遠に続くことだから、いつまでも変わらないまことの神徳を授けるぞ。言葉にできないこと、神示に書けないことも知らせることがあるぞ。
【AIによる解釈】
大峠の厳しさと、それに対する神々の本気度を示しています。「まことの者 千人に一人」という言葉は、真理に目覚める人がいかに少ないかを表し、安易な考えを戒めます。敵の計画は巧妙かつ強大であり、それに対抗するには、物質主義的な方法(殺し合い)ではなく、日本古来の霊的な道(神国のやりかた)に立ち返る必要があると説きます。 この戦いは、神々が総力を挙げて臨むほどの最終決戦(トコトンの処まで行く)であり、人間にも相応の覚悟(石にかじりついても)が求められます。しかし、その苦難を乗り越えた者には、永遠不変の「マコトの神徳」が与えられるという、最大の報酬が約束されています。最後に、文字では伝えきれない、より深い奥義が(おそらくは直感や口伝によって)明かされることを示唆しており、神示の先にある更なる次元の存在を匂わせています。
第十三帖 (二四九)
【原文】
コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ。今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ。神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、(モト)の(ニホン)の(カミ)の光りクッキリ現はさなならんと仰せあるぞ、早う洗濯せんと間に合はんぞ。この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ。仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ。神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ。神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな。
【現代語訳】
言(コト)が違うから、精神が違うから、違う結果になるのだ。言を正しくすれば、正しい結果となるのだ。日本の国は、根源の神の血筋である混じりけのない魂によって、永遠に世を治めるのだ。何事も永遠に続くことだから、末代までも動かないように定めるのだから、大変な計画なのだ。上の立場の者たちは、このままで何とかなると思っているようだが、その心は自己中心的だぞ。今度は手を合わせて拝むだけでは駄目だと申しただろう。新しい規則が決まったら、昔よりも厳しくなるのだぞ。負けられない戦いになるのだ。神の魂を持った民でなければ、神の国には住めなくなるのだぞ。この世を治めるには、この地の先祖である生きた神々の光が現れなければ、治まらないのだ。今度は徹底的に掃除をしなければならない。少しでも混じりけがあったら、将来また大きな間違いとなるから、洗濯、洗濯とくどく言っているのだ。神は一時期、菩薩として現れていたが、もう菩薩の慈悲だけでは世は治まらないから、いよいよ生きた神としての本性を現して、バタバタと決着をつけるのだぞ。今の学問のある者は大きな勘違いをしている。大国常立尊大神として現れ、天も地も、神々の世界にまで働きかけ、元の日本の神の光をはっきりと現さなければならないと仰せになっているぞ。早く洗濯しないと間に合わないぞ。この道の役員は、「私は苦労して人を助けるのだ」という心でなければならない。我を出し、自分のことばかり考えていると、全てひっくり返るぞ。仏教もキリスト教も何もかも、すっかりと救わねばならないのだ。殺して救う場合と、生かして御用に使って救う場合があるぞ。今度ははっきりと区別する。これは昔からの因縁なのだ。この神の元に参って、昔からの因縁やこの先のことをよく聞いて納得できたら、腹の底から改心して、まことの御用を結構に務めあげてくれよ。逃げ道を作ってはならない。二つも三つも道を作ってはならない。まっすぐに神の道に進みなさい。神の道は一筋だと申しただろう。それぞれに相応の行をしなければ、まことのことは成就しないのだぞ。「世界の片隅の浜辺からいよいよが始まる」と知らせておいたことが近くなったぞ。くどいようだが、さっぱりと洗濯してくれよ。神の国は神のやり方でなければ治まらないから、今までの法律も、言葉も、やり方も変えて、「今までのやり方は間違っていました。神の御心の道に従います」と心からお詫びしなければならない。そうするまで苦しみは続くのだぞ。この苦しみは筆や口では言い表せないほどのものに、人々の心次第でなるのだから、くどく言っているのだ。何もかも神に捧げなさい、天子様に捧げなさいと申しただろう。それが神の国の民の心得だ。嫌でも応でも、そうなってくるのだ。神の国の政治と経済は一つだと申しただろう。今の人々に分かるように言うならば、人々が働いて得た収穫物は、全て一度神様にお捧げするのだ。そうすれば神の社は幸で埋め尽くされ、光り輝き、光の街となるのだ。そして、神から分け与えられるのだ。その人の働きに応じて、それぞれに恵みのしるしが下されるのだ。それがお宝だ。お宝は、その人の徳に応じて集まるのだ。金は要らないと申しただろう。元の世になるまでの過渡期に、そのようなことになり、それからまことの神の世になるのだ。神の世は祭りがあるだけだ。それまでにお宝が下されるのだ。お宝とは、今のお札のようなものだ。分かるように言うなら、神の社と役所と市場が一体化したようなものが、一時的に出来るのだ。嬉し嬉しの世の中になるのだ。それがまことの祭りの始まりなのだ。このことをよく心に刻み、一二三(ひふみ)の教えとして説いて、早く上の指導者にも、下の人々にも知らせて、安心して、勇んで暮らせるようにしてあげてください。それも人々の心次第だ。素直な人は、早く嬉しくなって心が勇むぞ。寂しくなったら尋ねてきなさいと申してあるだろう。
【AIによる解釈】
この帖は「磐戸の巻」の中でも特に長く、今後の世界の具体的なビジョン、心構え、そして経済システムにまで言及する極めて重要な内容です。
- 言霊と精神の重要性: 全ての根本は「コト(言葉・事象)」と「精神」にあり、これを正すことが正しい世界を創る鍵であるとします。
- 日本の天命と徹底的な浄化: 日本が世界の霊的中核としての役割を担うこと、そのためには一点の曇りもない徹底的な浄化(洗濯)が必要不可欠であることを強調します。中途半端な浄化では未来に禍根を残すため、神は慈悲の「菩薩」の相から、厳格な「生神」の相へと変わり、断固として改革を進めると宣言します。
- 奉仕の精神と普遍的な救済: 神の御用に関わる者は、自己犠牲的な「人を助ける」精神が必須であり、我欲は破滅を招くと戒めます。その救済は、仏教やキリスト教を含むあらゆるものを対象としますが、「生かして使う」者と「殺して救う(=霊的に生まれ変わらせる)」者の区別が厳格に行われるとします。
- 一本道と覚悟: 迷いや逃げ道は許されず、「神の道」という一本道をまっすぐに進む覚悟が求められます。
- 新しい経済システム: 最も注目すべきは、来るべき世界の経済システムの描写です。全ての生産物を一度神(共同体の中枢)に捧げ、そこから各自の働きや徳に応じて「お宝」(新しい形の通貨)が再分配されるという、所有の概念を超えた循環型の経済(政治と経済の一致)が示されています。これは、個人の欲に基づかない「嬉し嬉し」の共同体のビジョンであり、まことの「マツリ(祭り・政)」世界の始まりとされています。 この帖は、単なる精神論に留まらず、社会構造の根幹からの変革を具体的に指し示している点で、ひふみ神示全体の核心に触れるものと言えるでしょう。
第十四帖 (二五〇)
【原文】
生味(しょうみ)の、生き通しの神が、生味を見せてやらねばならんことに、何れはなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ。可哀さうなは兵隊さんざぞ、神に祈りてやりて呉れよ。幽界人(がいこくじん)よ、日本の国にゐる幽界魂(がいこくたま)の守護人よ、愈々となりて生神の総活動になりたら、死ぬことも生きることも出来ん苦しみに一時はなるのざから、神から見ればそなた達も子ざから早う神の下にかえりてくれよ、いよいよとなりて来たのざぞ、くどうきづけるぞ。
【現代語訳】
ありのままの、生き通しの神が、その正体を現さねばならない時が、いずれは来るのだ。しかし、生きた神のありのままの姿はあまりに強烈だから、今のうちに綺麗に(心を)洗濯しておきなさい、皆と和合しておきなさいと申すのだ。可哀想なのは兵隊さんたちだぞ。神に彼らのために祈ってあげなさい。外国人よ、そして日本にいる外国精神に染まった指導者たちよ。いよいよという時が来て、生きた神々が総活動を開始したら、死ぬことも生きることもできないような苦しみに一時的にはなるのだから、神から見ればあなたたちも我が子であるから、早く神の元に帰ってきなさい。いよいよの時が迫ってきたのだぞ。くどいようだが気づかせるぞ。
【AIによる解釈】
神がその本性(生味)を現す時の苛烈さを警告する帖です。神のエネルギーは純粋で強烈なため、浄化されていない魂(洗濯していない心)では、その光に耐えられないことを示唆しています。だからこそ、今のうちに心の浄化と他者との調和(まつろひ)を済ませておくよう、繰り返し促しているのです。 戦地にいる「兵隊さん」への祈りを促す部分には、個人の善悪を超えて、時代の犠牲となっている人々への深い慈悲が見られます。 そして、日本国内外の「外国魂」を持つ人々、すなわち物質主義や神を信じない人々に対して、最後の警告と共にあたたかい呼びかけをしています。「そなた達も子ざから」という言葉に、敵対者でさえも救おうとする神の親心が現れています。しかし、その慈悲による呼びかけも、時が来れば終わりを迎えるという、切迫した状況を伝えています。
第十五帖 (二五一)
【原文】
この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ、役員 気つけて呉れよ。皆和合して呉れよ。わるき言葉、息吹が此の方一番邪魔になるぞ、苦労なしにはマコト判らんぞ、慾はいらぬぞ、慾出したら曇るぞ。めくらになるぞ、おわびすればゆるしてやるぞ、天地に御無礼ない臣民一人もないのざぞ。病治してやるぞ、神息吹つくりてやれよ、神いぶきとは一二三書いた紙、神前に供へてから分けてやるもののことざぞ。腹立つのは慢心からぞ、守護神よくなれば肉体よくなるぞ、善も悪も分からん世、闇の世と申すぞ。天照皇太神宮様(テンショウコウタイジングウサマ)の岩戸開きは、だました、間違ひの岩戸開きぞ、無理にあけた岩戸開きざから、開いた神々様に大きなメグリあるのざぞ、今度はメグリだけのことはせなならんぞ、神にはわけへだて無いのざぞ、今度の岩戸開きはちっとも間違ひない、まぢりけのない、マコトの神の息吹でひらくのざぞ。まぢりありたら、にごり少しでもありたら、またやり直しせなならんから くどうきつけてゐるのざぞ。何時迄もかわらんマコトでひらくのざぞ。
【現代語訳】
この神の道が悪いと思うなら、出て来なさい。良いか悪いか、はっきりと納得がいくまで見せてやるぞ。何事も心から納得させなければ、根本からの掃除はできないのだ。役員は気をつけなさい。皆、和合してくれよ。悪い言葉や息吹(雰囲気)が、この神の働きの一番の邪魔になるのだ。苦労なくして真実は分からないぞ。欲は要らない。欲を出すと心が曇るぞ、盲目になるぞ。お詫びをすれば許してやるぞ。天地に対して無礼でなかった者は一人もいないのだから。病を治してやるぞ。神の息吹を作って与えなさい。「神いぶき」とは、一二三(ひふみ)と書いた紙を神前に供えてから分け与えるもののことだぞ。腹が立つのは慢心からだ。守護神の状態が良くなれば肉体も良くなる。善も悪も分からなくなった世を、闇の世と申すのだ。天照大御神の岩戸開きは、だまして行われた、間違いの岩戸開きだ。無理やり開けた岩戸開きだから、それを開いた神々に大きな因縁(メグリ)があるのだ。今度はその因縁の分だけのことはしなければならない。神には分け隔てはないのだぞ。今度の岩戸開きは、少しも間違いのない、混じりけのない、まことの神の息吹によって開くのだ。混じりがあったり、少しでも濁りがあったりすれば、またやり直しになるから、くどく注意しているのだ。永遠に変わらない真実によって開くのだぞ。
【AIによる解釈】
この帖は、今度の「岩戸開き」の正当性と完全性を強く主張しています。まず、神の道に疑いを持つ者には、徹底的に議論し、納得(得心)させるまで真実を見せると宣言します。これは、強制ではなく、個々の自由意志による理解を重んじる姿勢の表れです。 その上で、神の働きを妨げるものとして「わるき言葉、息吹」「慾」を挙げ、心の浄化と和合の重要性を説きます。病の原因は「慢心」にあり、守護霊の状態が肉体に影響するとも述べています。 そして、最も衝撃的なのは、日本神話の「天の岩戸開き」を「だました、間違ひの岩戸開き」と断じている点です。これは、神話が伝える物語の裏に、不完全な要素や、無理強いがあったことを示唆しています。その結果生じた因縁(メグリ)を、今度の岩戸開きで完全に清算する必要があるとしています。だからこそ、今度の計画は一点の曇りも混じりけもない「マコト」によって行われなければならない。そのための徹底した浄化の必要性を、繰り返し説いているのです。
第十六帖 (二五二)
【原文】
世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。
【現代語訳】
天地開闢以来の生きた神々が一斉に現れたら、皆は腰を抜かし、目をパチクリさせて、ものが言えなくなってしまうぞ。神徳を頂いた民でないと、なかなか越せない峠なのだ。神徳はいくらでも、背負いきれないほどに与えるぞ。大きな器を持って来なさい。掃除をした大きな入れ物を、いくらでも持って来なさい。神の世界ではビクともしない仕組みが出来上がっているのだから、安心して御用を務めてくれよ。今度はまことの神の力でなければ何も出来はしないと申しただろう。日本は小さい国だが、天と地の神の力が強い、神のまことの根源の国なのだぞ。「洗濯」とは、何事においても人間的な考えを捨ててしまい、自分の知恵や学問に頼らずに、神の言うことを一つも疑わず、生まれたばかりの赤子のような純真な心になって、神の教えを守ることだ。「ミタマ磨き」とは、神から授かっている自らの魂(ミタマ)の命令に従い、肉体的な欲望や考えを捨ててしまって、神の言う通りに背かないようにすることだ。学問や知識を頼りにしているうちは、魂は磨けないのだ。学問を超えた学問、知識を超えた知識が、神の学問、神の知識だということが分からないのか。今度の岩戸開きは魂から、根本から変えていくのだから、大変なことなのだぞ。天災や戦争だけではなかなか決着はつかない。根本からの改めなのだ。小さいことだと思っていると、とんでもないことになると申しただろう。この道理をよく心に刻みなさい。今度は、上・中・下と三段階に分かれている魂の因縁に応じて、それぞれに道筋をつけ、悪も改心させ、善も改心させての岩戸開きだから、ゼロから創り変えることよりも、どれだけ難しいか、大変な骨折りなのだよ。叱るだけでは改心できないから、喜ばせて改心させるという方法も、守護神によってはあるのだぞ。聞き分けの良い守護神は少ない。かえって聞き分けの良い悪神は、早く改心するぞ。聞き分けの悪い善の守護神もいるのだ。この道の役員は、昔からの因縁によって魂を調べた上で引き寄せて御用をさせているのだから、めったに見当違いはない。神が一度綱をかけたら、なかなか離さないぞ。逃げられるものなら逃げてみなさい。ぐるぐる回って、また最初からやり直しで御用をしなければならないことになるぞ。魂を磨き始めれば、病神などはどんどん逃げ出していくぞ。出雲の神様を大切にしなさいと知らせておいたことを忘れるなよ。子の年を中心とした前後十年間が正念場だ。世の立て替えは水と火によって行われるぞ。未(ひつじ)の年の三月三日、五月五日は結構な日だぞ。
【AIによる解釈】
この帖は、大峠の実相と、それを乗り越えるための具体的な心構え、そして神の計画の緻密さを説いています。
- 魂の浄化の定義: 「洗濯」と「ミタマ磨き」の明確な定義が示されます。「洗濯」とは人間的な知恵や疑いを捨て、赤子のように純粋に神の教えに従うこと。「ミタマ磨き」とは、我欲(肉体心)を捨て、内なる神性(ミタマの命令)に従うこと。両者は表裏一体であり、人智を超えた領域に意識を開くことを意味します。
- 善悪を超えた救済: 救済は画一的ではなく、個々の魂のレベル(上中下三段のミタマ)に応じて行われます。特筆すべきは「聞き分け悪き善の守護神」の存在です。これは、善人であることに固執し、変化を拒む頑なさが、かえって進化の妨げになることを示唆しています。悪も善も、共に改心が必要な対象として捉えられています。
- 神の計画の絶対性: 神の計画(仕組)は完璧であり、神に選ばれた者(役員)は、逃れることができない宿命の下にあるとされます。これは、個人の魂の成長にとって、その役割が必要不可欠だからです。
- 具体的な預言: 「子の年を中心とした前後十年が正念場」「立て替えは水と火」「出雲の神様を大切に」「ひつじの年の三月三日、五月五日」といった、具体的な時期や象徴、注意点が示されています。これらは、神の計画が具体的なタイムラインとプロセスを持って進行していることを示唆しています。
第十七帖 (二五三)
【原文】
この神はよき臣民にはよく見え、悪き臣民には悪く見へるのざぞ、鬼門の金神とも見へるのざぞ、世はクルクルと廻るのざぞ、仕合せ悪くとも悔やむでないぞ、それぞれのミタマの曇りとりてゐるのざから、勇んで苦しいこともして下されよ、上が裸で下が袴はくこと出て来るぞ。神が化かして使うてゐるのざから、出来あがる迄は誰にも判らんが、出来上がりたら、何とした結構なことかと皆がびっくりするのざぞ、びっくり箱にも悪いびっくり箱と、嬉し嬉しのびっくり箱とあるのざぞ、何も知らん臣民に、知らんこと知らすのざから、疑ふは無理ないなれど、曇りとれば、すぐうつる、もとの種もってゐるのざから、早うこの神示読んで洗濯して呉れよ、どんな大峠でも楽に越せるのざぞ、神の道は無理ない道ざと知らしてあろが。ミタマの因縁おそろしいぞ。上下わき上がるが近うなりたぞ。
【現代語訳】
この神は、善い人には善い神に見え、悪い人には悪い神に見えるのだ。恐ろしい鬼門の金神のようにも見えるのだ。世の中はぐるぐると巡っているのだから、運が悪くても悔やんではいけない。それは、それぞれの魂の曇りを取っている最中なのだから、勇気を出して苦しいことにも取り組んでください。上(の身分の者)が裸で、下(の身分の者)が袴をはくような、価値観が逆転する出来事が起こるぞ。神が(人の目には不可解な形で)采配を振るっているのだから、計画が出来上がるまでは誰にも分からないが、出来上がってみれば、「なんという素晴らしいことだったのか」と皆がびっくりするのだ。びっくり箱にも、悪いびっくり箱と、嬉しいびっくり箱とがあるのだぞ。何も知らない人々に、知らないことを知らせるのだから、疑うのも無理はないが、心の曇りを取りさえすれば、すぐに神意が映るのだ。元々、神の種を持っているのだから。早くこの神示を読んで心の洗濯をしなさい。そうすれば、どんな大峠でも楽に越せるのだぞ。神の道は無理のない道だと知らせてあるだろう。魂の因縁は恐ろしいものだぞ。上下の区別なく人々が騒ぎ出す時が近づいたぞ。
【AIによる解釈】
この帖は、事象の捉え方が人の心の状態に依存するという、鏡の法則を説いています。神の働きも、見る人の心が善であれば善に、悪であれば悪に見える。苦難や不運も、視点を変えれば「ミタマの曇りとり」という魂の浄化プロセスであると捉えることができます。「上が裸で下が袴」とは、社会的地位や権威が完全に逆転するほどの価値観の転換を示唆しています。 神の計画は、完成するまで人間には理解不能な「化かし」のように見えるかもしれないが、最終的には誰もが驚くほど素晴らしい「嬉し嬉しのびっくり箱」なのだと約束されています。疑うのは無理もないが、人は皆、内面に神と繋がる「もとの種」を持っているため、心の曇り(先入観や我欲)を取り除けば、真実を理解できると説きます。神の道は、本質的には「無理ない道」であり、自らの心を浄化し、流れに任せることが、大峠を楽に越える秘訣なのです。「上下わき上がる」とは、社会全体を巻き込む大きな変革、あるいは民衆蜂起のような事態が近いことを示唆しています。
第十八帖 (二五四)
【原文】
今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ。改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。この仕組判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此の方申すのざ。悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ。
【現代語訳】
今度の御用は、世の中で苦労に苦労を重ねてきた者でないと、なかなか務まらないぞ。神自身も長い間、この世に落ちて苦労を重ねてきたが、時節が到来し、見事に世に出て来たのだ。因縁のある魂が、世に落ちぶれていると申しただろう。外国かぶれの者たちは、やがて大きな息もできなくなるぞ。覚悟はいいか。改心すれば、その時から良い方向に転換させてやるぞ。改心といっても、人の前で懺悔するのは日本の神の道ではない。人の前での懺悔は、かえって神を傷つけることになると心得なさい。神の御前にこそ懺悔せよ。そして懺悔した悪しき事柄の倍以上に、善き言霊を唱えなさい。声を高くあげなさい。富士が晴れ渡るように、世の中が晴れるまで、善き言霊を高く唱え続けなさい。その言葉に神が乗り移り、どんな手柄でも立てさせ、永遠に名が残るようにしてやるぞ。この仕組みが分かったら、上の立場の者たちも逆立ちするほど驚いてお詫びに来るだろうが、その時になってはもう間に合わないから、くどく注意しているのだ。人々が可愛いから、嫌がられてもこの神は申すのだ。悪と思うことの中に善があり、善と思うことの中に悪が多いと知らせてあるだろう。このことをよく心得ておきなさい。世の中が悪に染まっているので、まことの神さえ悪に巻き込まれているほど、誰もが知らず知らずのうちに悪くなっているのだ。今度の世の乱れというものは、(一度ならず)五度も岩戸が締められたほど根深いものだから、見当もつかない。人々に分からないのも無理はないが、それを分かってもらわないと、結構な御用は務まらないのだぞ。時が来れば、皆が自分の口で自分の過ちを白状するようになるのだ。神の民として恥ずかしくないようにしてくれよ。民が恥をかくことは、神が恥をかくことなのだぞ。いよいよ善と悪の入れ替わりの時であるから、悪神が暴れ出す。それに巻き込まれないように褌を締め直し、この神示を読んで神の心を汲み取り、御用を大切にしなさい。
【AIによる解釈】
この帖は、神の御用を担う者の資質と、改心の真の方法について説いています。
- 苦労人の登用: 華やかなエリートではなく、社会の底辺で苦労を重ねてきた人物こそが、新しい時代を担うと示します。これは、苦労を通して魂が磨かれ、人々の痛みが分かるからであり、神自身も同様の経験をしてきたと語られます。
- 真の懺悔と言霊の力: 懺悔は、人前で行うパフォーマンスではなく、神との内なる対話であるべきだとします。そして、過去の過ちを悔やむだけでなく、それを上回る善き言霊(ポジティブな言葉、祈り)を発することの重要性を強調します。言霊には神が宿り、現実を創造する力があるからです。
- 善悪の逆転と混乱の根深さ: 現代は善悪の価値観が逆転しており、誰もが知らず知らずに悪に加担している危険な時代であると警告します。「五度の岩戸しめ」という表現は、この世の混乱が、神話の時代から何度も繰り返されてきた根深い問題であることを示唆しており、その解決がいかに困難であるかを物語っています。
- 神と民の同一性: 「臣民はづかしことは、神はづかし」という言葉は、神と人々が一体であることを示しています。人々の行いが、そのまま神の栄光にも恥にも繋がるという、強い共同体意識と責任を促しています。善悪が入れ替わる激動期を前に、心を強く持ち、神の意に沿って行動することの重要性を説いて締めくくっています。
第十九帖 (二五五)
【原文】
向ふの国いくら物ありても、人ありても、生神が表に出て働くのざから、神なき国は、いづれは往生ざぞ。この神の申すことよく肚に入れて、もうかなはんと申す所こらへて、またかなはんと申す所こらへて愈々どうにもならんといふ所こらへて、頑張りて下されよ、神には何も彼もよくわかりて帳面に書きとめてあるから、何処までも、死んでも頑張りて下されよ、其処迄 見届けねば、この方の役目果たせんのざ、可哀さうなれど神の臣民殿、こらえこらえてマコト何処迄も貫きて下されよ、マコトの生神がその時こそ表に出て、日本に手柄さして、神の臣民に手柄たてさして、神からあつく御礼申してよき世に致すのであるぞ、腹帯しっかり締めてくれよ。重ねて神が臣民殿にたのむぞよ、守護神殿にたのむぞよ。
【現代語訳】
向こうの国(敵対勢力)に、いくら物資や人材があっても、こちらでは生きた神が表に出て働くのだから、神のいない国は、いずれは行き詰まるのだぞ。この神の言うことをよく心に刻んで、「もう敵わない」と思う所をこらえ、また「もう駄目だ」と思う所をこらえ、いよいよ「どうにもならない」という所をこらえて、頑張ってください。神は何もかもお見通しで、帳面に書き留めてあるから、どこまでも、たとえ死んでも頑張り通してください。そこまで見届けなければ、この神の役目は果たせないのだ。可哀想だけれども、神の民よ、こらえにこらえて、誠をどこまでも貫いてください。まことの生きた神が、その時こそ表舞台に現れ、日本に手柄を立てさせ、神の民に手柄を立てさせ、神の方から厚く御礼を申して、良き世にするのであるぞ。腹帯をしっかり締めてくれよ。重ねて、神が民よ、そして守護神たちよ、頼むぞ。
【AIによる解釈】
この帖は、絶望的な状況の先にある逆転勝利を信じ、最後まで耐え抜くことを人々に懇願する、極めて強いメッセージです。勝敗を決するのは、物質的な豊かさ(物、人)ではなく、霊的な力(生神が働くか否か)であると断言します。 「もうかなわん」という極限状況を三度繰り返し、それを耐え抜くことを要求しています。これは、人間の限界を超えた忍耐を試す神の試練であり、その全ての苦労は神によって記録されている(帳面に書きとめてある)と述べ、決して無駄にはならないことを保証しています。神が「可哀そうだけれども」と言いながらも試練を与えるのは、人々の魂を極限まで鍛え上げ、誠を貫く純粋な心を現出させるためです。 そして、その忍耐が極限に達した「その時」こそ、神が完全に介入し、劇的な形で勝利をもたらすと約束されています。これは、民衆の苦難と誠の心が、神が動くための「トリガー」となることを示唆しています。神が民に「頼むぞ」と頭を下げる形で締めくくられている点に、この計画における民衆の役割の重要性と、神の切実な思いが表れています。
第二十帖 (二五六)
【原文】
いくさ何時も勝と許りはかぎらんぞ、春まけとなるぞ、いざとなれば昔からの生神様総出で御働きなさるから、神の国の神の道は大丈夫であるなれど、日本臣民 大丈夫とは申されんぞ、その心の通りになること忘れるなよ、早うミタマ磨いてくれよ、も少し戦すすむと、これはどうしたことか、こんなはづではなかったなあと、どちらの臣民も見当とれん、どうすることも出来んことになると知らしてあろが、さうなってからでは遅いからそれ迄に、この神示よんで、その時にはどうするかと云ふこと判りて居らんと仕組成就せんぞ、役員の大切の役目ざぞ、われの思いすてて了ふて早うこの神示、穴のあく程うらの裏まで肚に入れておいてくれよ、この神示の終りに、神強く頼むぞよ。
【現代語訳】
戦はいつも勝つとは限らないぞ。春には負けることになるぞ。いざとなれば、古来の生きた神々が総出で働かれるので、神の国としての日本の道筋は大丈夫だが、日本の民が大丈夫とは言えないぞ。各自の心の通りになることを忘れるなよ。早く魂を磨いてくれよ。もう少し戦が進むと、「これはどうしたことか、こんなはずではなかったのに」と、日米どちらの国民も見当がつかない、どうしようもない事態になると知らせてあるだろう。そうなってからでは遅いから、それまでにこの神示を読んで、その時にはどうすればよいかを分かっていないと、神の仕組みは成就しないのだぞ。それが役員の、大切な役目なのだ。自分の考えを捨ててしまって、早くこの神示を、穴が開くほど裏の裏まで読み込んで、心に刻んでおいてくれよ。この神示の終わりに、神は強く頼むぞ。
【AIによる解釈】
この帖は、目先の戦況が悪化することを明確に預言しています(春まけとなるぞ)。しかし、それは最終的な敗北ではなく、神の計画の一部であることを示唆しています。日本の国家としての霊的な命運(神の国の神の道)は神々によって護られるが、個々人の運命は保証されないと警告します。その人の「心の通りになる」、すなわち、個人の意識の状態が、その人の未来を決定するという、第二帖でも述べられた法則がここでも強調されます。 やがて戦況は、当事者国のどちらもが予測不能な、人知を超えた展開(どうすることも出来んこと)になると預言します。その混乱期にパニックに陥らず、正しく行動するためには、この神示を深く理解し、心の準備をしておくことが不可欠です。神の計画(仕組)を成就させるためには、神の意を汲んで行動する「役員」の存在が重要であり、彼らには我欲を捨てて神示を徹底的に研究・理解する使命があると説きます。最後にも「神強く頼むぞよ」と念を押すことで、その使命の重大さを伝えています。
第二十一帖 (二五七)
【原文】
元の大和魂にかへれと申すのは、今の臣民には無理ぢゃな、無理でも、神に心向ければ出来るのざぞ、どうしても今度は元のキの儘の魂にかへらんとならんのぞ、かんじんの神示むやみに見せるではないぞ。仕組こわれるぞ、今に神示に書けないことも知らさなならんから、みみから知らすから、肚から肚へと伝へて呉れよ。節分からははげしくなりて、はげしき神示はかかせんぞ。天明 神示の御用はこれでしばらく御用すみぞ、その代りみみ掃除。
【現代語訳】
元の「大和魂」に帰れと言っても、今の人々には無理なことだろうな。無理だと思っても、心を神に向ければ出来るのだぞ。どうしても今度は、根源の「気」のままの純粋な魂に帰らなければならないのだ。肝心な神示は、むやみに人に見せるものではないぞ。神の仕組みが壊れてしまうからだ。やがて神示には書けないことも知らせなければならなくなるから、その時は耳(口伝)で知らせる。だから、肚(はら)から肚へと(心で深く理解し合って)伝えてくれよ。節分からは事態が激しくなり、激しい内容の神示は書かせないぞ。天明(岡本天明)に降ろす神示の御用は、これでしばらく終わりとなるぞ。その代わり、耳の掃除をして待っていなさい。
【AIによる解釈】
「磐戸の巻」の締めくくりとなるこの帖は、魂の根本的な回帰を求めると同時に、神示の伝達方法の変化を予告しています。 「元のキの儘の魂」とは、後天的な知識や価値観に汚される以前の、純粋で根源的な生命エネルギーそのものの状態を指します。それに帰ることは困難だが、意志(神に心向ければ)によって可能であると説きます。 そして、神示の扱いについて厳重な注意を与えます。誰にでも見せるべきではなく、その真意を理解できる者同士で「肚から肚へ」と、心で伝達する必要があるとしています。これは、文字情報が歪曲されたり、悪用されたりする危険性を示唆しています。 「節分からははげしくなりて」という言葉は、事態の急変を告げています。それに伴い、文字による神示(天明の御用)は一時中断し、これ以降は口伝や直感といった、より直接的な方法(みみから知らす)で情報が与えられることを宣言しています。「みみ掃除」とは、その非言語的なメッセージを受け取れるように、心の耳を澄ませておけ、という最後の重要な指示です。これは、神とのコミュニケーションが、より内面的で直接的な段階へと移行することを示しています。
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